投稿者: ldw-admin

  • 伊勢山皇大神宮

    伊勢山皇大神宮

    伊勢山皇大神宮

    紅葉坂から野毛方面に広がる丘に伊勢山皇大神宮が鎮座しています。伊勢山皇大神宮は横浜の開港をきっかけとしてこの地に創建されました。
    1870年代横浜が開港されると、貿易以外にもキリスト教などの外来の異文化が盛んに入ってきました。
    そのため神奈川県は精神的支柱と国家の鎮護を祈るために、横浜に神社信仰の場を設けることになり1870(明治3)年、旧戸部村の祠を野毛山に遷座して創建しました。

    伊勢山皇大神宮

    三重の伊勢神宮内宮の御祭神と同じ天照大御神を祀ったため、名称を「伊勢山」に変更しました。
    以来横浜の総鎮守として、また「関東のお伊勢さま」とも呼ばれて、初詣・お花見・七五三等の参拝など広く人々の信仰を集めています。
    毎年5月14日(宵宮祭)・15日(本宮祭)・16日(後宮祭)が例祭で、庖丁式や舞楽奉納などが壮大に行われています。

    取材場所詳細
    場所:伊勢山皇大神宮
    参拝時間:午前8時~午後8時
    住所:横浜市西区宮崎町64  ★地図


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  • 英連邦戦死者墓地

    英連邦戦死者墓地

    英連邦戦死者墓地

    横浜には外人墓地が山手と根岸にありますが、もう1つ、保土ヶ谷区の横浜横須賀道路の狩場インター近くには「英連邦戦死者墓地」があります。
    ここは、第2次世界大戦後にアメリカ合衆国をはじめとする連合国と日本との間で締結されたサンフランシスコ平和条約に関連する「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」によって設立されました。元々は「児童遊園地」の敷地でしたが、戦後の接収によりその一部の土地と管理を英連邦戦死者墓地管理委員会に永久に貸与しました。

    イギリス本国だけでなく、英連邦諸国であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インド、パキスタン、その他アメリカ合衆国とオランダの各国戦没者が葬られています。

    英連邦戦死者墓地

    第2次世界大戦での戦没者以外にも朝鮮戦争やベトナム戦争、戦後の外交関係者、民間人の犠牲者も葬られています。 エリザベス女王夫妻、故ダイアナ妃、サッチャー首相も来日時に訪れました。

    手入れが行き届いた美しい草花と、母国を偲ぶ墓石に囲まれて、異国の地でも安らかに眠ってもらうことを祈るばかりです。

    取材場所詳細
    場所:英連邦戦死者墓地
    参拝時間:午前8時~午後5時
    住所:横浜市保土ケ谷区狩場町238  ★地図


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  • 掃部山公園

    掃部山公園

    掃部山公園

    桜木町駅から山側の紅葉坂を登った右側に広がる小高い緑の丘が掃部山公園です。
    この丘には、明治初期に来日した外国人鉄道技師用官舎技師たちの官舎がありました。
    また、涌き水が鉄道用水として利用されたこともあり、付近一帯は鉄道用地として 「鉄道山」と呼ばれていました。 時は江戸末期、ペリーの来航を迎えようとしていた時に政治の表舞台に踊り出た井伊 直弼は、大老に就任した1858(安政5)年に日米修好通商条約の調印を果たしました。

    しかし彼の独裁的な政策 に反発も多く、 1860(安政7)年、江戸城桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受けて(桜田門外の変)46歳 の生涯を閉じました。

    掃部山公園

    その後、井伊直弼の出身地である旧彦根藩の士族らが記念碑の建立を計画しました。
    1881(明治14)年 開港の海を見渡せる鉄道山を井伊家として買収、井伊直弼が名乗っていた「井伊掃部 頭(かもんのかみ)直弼」 にちなんで「掃部山」と呼ぶようになりました。
    1909(明治42)年には銅像が作られ たものの、旧攘夷派の流れを 汲む人々によって首を落とされ、さらに第二次大戦による金属回収指示によって取り 払われてしまいました。
    現在の銅像は1954年(昭和29年)に再建されたものですが、台座は初代のものが使わ れています。 井伊直弼の銅像からはランドマークが臨めますが、井伊家所有時代に造営された公園 内の日本庭園など、 日本の歴史を感じることの出来る場です。

    取材場所詳細
    場所:掃部山公園
    住所:横浜市西区紅葉ケ丘57  ★地図

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  • 横浜能楽堂

    横浜能楽堂

    横浜能楽堂

    横浜能楽堂は緑豊かな掃部山公園の一角に建っています。この能楽堂の本舞台は、1875(明治8)年に東京・根岸の旧加賀藩主前田斉泰(なりやす)家に建てられ、後に染井の松平頼寿(よりなが)邸に移築され、1965(昭和40)年まで実際に利用されていました。
    これは現存する関東最古の能舞台といわれています。1996(平成8)年、本舞台をメインとして解体移築され、横浜能楽堂として開館しました。能楽堂内には能楽の装束や楽器などを常設展示している他、有料公演時以外であれば二階席から本舞台を観覧できます。
    無料スペースもあり、能楽への理解を広く深める役割も持っています。

    取材場所詳細
    場所:横浜能楽堂
    入館時間:午前9時~午後8時
    休館日: 不定期
    住所:横浜市西区紅葉ヶ丘 27  ★地図

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  • カトリック山手教会

    カトリック山手教会

    カトリック山手教会

    1862年(文久2年)フランス人宣教師ジラールによって、横浜開港後の最初のキリスト教会堂である横浜天主堂が山下町に建てられました。
    やがて山手が外国人住宅地として発展したのに伴い、教会は山手44番に移転することになりました。

    1906年(明治39年)に双塔のゴシック様式煉瓦造りの大聖堂が完成して、活動の拠点を移したものの、関東大震災で倒壊してしまいます。1933年(昭和8年)チェコ出身のJ.J.スワガーの設計により、再建されました。

    尖塔アーチ形の窓、開堂当時からの鐘をもつとんがり屋根の鐘塔など、西欧中世を思い起こさせるネオ・ゴシック風の外観は、今もなお道行く人々を惹きつけます。
    横浜大空襲にも耐えた後、現在は横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

    鐘やフランスから贈られたという庭のマリア像は創建当時そのままの面影を残しています。
    行事が無い時には一般開放をしているので、建物の中の重厚な雰囲気を感じられることも出来ます。

    取材場所詳細
    場所:カトリック山手教会
    住所:横浜市中区山手町44  ★地図


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  • 山手80番館遺跡

    山手80番館遺跡

    山手80番館遺跡

    かつて外国人居留地として開発された山手地区には、住宅だけでなく学校、病院、教会などの西洋建築が立ち並んでおり賑わっていましたが、関東大震災と第二次世界大戦の空襲によって、そのほとんどが倒壊・焼失してしまいました。
    元町公園の西端の小径を山手本通り方面に登ると、おい茂る木立ちの間にれんがでできた山手80番館遺跡がひっそりと横たわっています。

    当時はフランス人マクガワン夫妻の住居で、鉄筋補強のレンガ造りによる三階建ての建物でありました。
    しかし、関東大震災で倒壊してしまい、最近になって発掘されました。

    山手80番館遺跡

    現在残っているのはその地下室部分と思われますが、玄関ホール、暖炉、サロンや使用人部屋などを備えた今で言う豪邸だったようです。また山手80番館に使われた瓦や、遺構から出土したタイルを色鮮やかに複製して展示してあります。

    遺跡の周囲には散策路から張り出すように展望デッキが設けられ、ゆっくりと見学することができます。

    取材場所詳細
    場所:山手80番館遺跡
    住所:横浜市中区山手町 元町公園内  ★地図

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